島田雅彦『彗星の住人』論(2)

1-2 三人称の語り

 小説の「2‐1」からは、アンジュが「君」にカヲルの過去を物語るという場面がはじまるが、記述上は三人称多元で語られる。しかし、これは椿文緒を「君」と呼んでいた同じ語り手であると考えられる。この語り手は、アンジュや彼女に物語を語り継いだ人々が知り得ない情報を持っており、複数の登場人物の内面にまで入っていくことができる。アンジュが語る話の内容は、彼女が父シゲルから聞かされたことと彼女自身の経験が基になっていると考えられるが、小説として書かれている内容とは、話の流れにおいては共通しながらも、三人称の語り手ほど詳細ではないことは、以下の記述から推測できる。  

 父はそう念を押すと、カヲルとマモルも呼び、同じ約束をさせ、野田蔵人と松原妙子の成就しなかった恋の顛末を、蔵人から聞かされた通りとは行かないまでも、忠実に再現して聞かせた。       

(同422頁)

 

 最後に、野田は、シゲルに、記憶し、語り継ぐことを望んだ。(中略)

 シゲルは自分の記憶力に不安を覚えながらも、その伝令の役目を引き受けたのだった。                    

(同109頁)

 たとえこのような人物が関わっていなくとも、語り継ぐ過程において、伝達内容の抜け落ちが生じることは避けられない。しかし三人称の語り手は、「祖父蔵人の記憶力も驚嘆に値するが、カヲルの養父シゲルも君の一族の歴史を忘却の河に流してしまわないよう、蔵人の一語一句を極めて正確にカヲルに伝えたようだ」(306頁)とシゲルのことを評している。この記述のずれをどう処理するべきか。シゲルの語り手としての資質についてはひとまず、脇に置いておくことにして、「3‐1」からはじまるシゲルの蔵人との交流と、未亡人キリコとの不倫について、自分の子どもたちに向かって小説に書かれている通り正直に語るということはありえるだろうか。ここには紛れもなくシゲルにしか知り得ない、そして娘のアンジュには決して話せそうにない交情が描かれている。さらに「カヲルには知る由もなかったが、シゲルは蔵人に払うべき尊敬を、その遺児カヲルを養育することで示したかったのだ」(423頁)には明確に、カヲルたちには語られることのなかったシゲルの心情が表現されている。アンジュ自身の語りについては「カヲルやシゲルのことは細部を漏らさず語る」(487頁)とあるが、彼女が知り得ない事実については語ることが出来ないことには変わりはない。つまり、小説の記述よりもアンジュの話のほうが内容的に乏しいといえる。ここで前に上げた問題、この語りが事後的なものか、メタ的なものかという問題に解答が与えられよう。つまり、語り継がれなかった人物の心情を事後的に語ることはできないため、この語り手はメタ視点に立つ語り手であるといえる。アンジュの語りがどのようなものなのかは彼女のセリフの内容から想像するしかない。「6‐2」の途中から、時間は現代に戻り、アンジュと「君」との会話と、カヲルの詩をおりまぜながら小説が展開される。ここでの会話から推測するに、アンジュの一方的な語りではなく、会話の形でカヲルの過去が語られていったのだろう。また、三人称の語りの地の文から内容的に連続する形でアンジュのセリフがはじまっていることは、アンジュの話が三人称の語りと大筋においては内容を同じくしていることを示している。

 ここで問題になってくるのは、何故作者は三人称での語りを採用したのかということだ。消極的な理由として考えられるものとしては、これまでのように、「君」に語りかけるスタイルで小説を展開させると、「アンジュの話を聞いている君」の行動を描くことになってしまうから、そして、アンジュと「君」との会話体にしてしまうと、彼女たちに知りえない登場人物の心情を描くことが出来ないうえ、メタ視点に立つ語り手の存在を排除してしまうことになるからであろう。これらの問題を回避するには、これまでと同じ語り手による、「君」への語りという意識を後退させて、話の内容に焦点を絞った三人称視点の語りしかない。

 この、登場人物が語っていながら、文章としては三人称で書かれているという形式は、映画の回想シーンの演出を思わせる。例えばジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』(一九九七年)のように。アンジュと「君」との対話の場面に比べて、三人称での語りの場面は「君」への語りかけが行われないために語り手の存在が希薄になり、登場人物の言動や思考がより直接的に表現されている。例を挙げると、「2‐1」では主にアンジュの視点から語られているが、「母常磐アミコは、(中略)もう二度と産みの苦しみは味わいたくなかった」(52頁)のように、母親の内面描写がなされている。  

 口から出任せだったが、父はアンジュの言葉にいたく感動して、頭のいい娘を抱き締めた。

 友達は死んだらしいが、父の散歩は続いていた。マモルは十四歳になり、アンジュは十歳になり、二人とも父の散歩のお伴は卒業していた。

 父は難しい年頃を迎えた長男と、もっぱらビリヤードを介して、対話を図っていた。全日本チャンピオンから直々に手ほどきを受けた父は、息子にその技術を授けながら、それとなく学校生活や友人関係に探りを入れ、定期的に怠惰を戒めながら、ある程度まで放任していた。学業の方は家庭教師に任せ、父は気の利いた人生訓を語って、威厳を示そうと努めた。

 娘のアンジュは時々、親が目を丸くするようなことをいってのけたが、大抵は読んだ本からの受け売りで、まだ暗闇を恐れたりする幼さを残していた。父はアンジュと話をするのが好きだったし、今しばらくは散歩のお伴をさせたがった。                 

(同54~55頁)

  この二つの段落では、視点人物がシゲル→アンジュ→シゲル→アンジュというように、繋ぎ目を意識させないよう自然に交代しているのがわかる。そして次の段落からはアンジュの視点からの記述が続く。このように、「2‐1」では基本的にアンジュ視点から綴られながらも、他の人物の性格や内面が挿入的に語られる。このようなスムーズな視点変更は一人称小説では不可能だ。作者の意図としては、登場人物の心情を描くためだけではなく、この文体を使用するためにアンジュによる一人称の語りを導入しなかったのではないか。