島田雅彦『彗星の住人』論(1)

某大学に提出した卒業論文をいくつかのエントリーに分けて転載する。読書の助けになれば幸いである。

はじめに

『彗星の住人』は二〇〇〇年に「純文学書下ろし特別作品」として新潮社より刊行された。二〇〇七年の文庫化に際し、加筆修正が行われている。本論文ではこの文庫版をテキストに用いる。

『彗星の住人』のあとがきによると、二〇年近く小説を書き続けてきた島田が、未だほかの誰にも書き得ない小説を書くためにこの作品を構想したという。皇族に嫁ぐことになる女性との恋愛というセンセーショナルな筋書きや、「無限カノン」全体で三巻に及ぶ小説の分量だけでなく、作品自体の空間的、時間的なスケールの大きさからいっても、彼の代表作と呼ぶにふさわしい。しかし「無限カノン」の完成から一〇年、『彗星の住人』の出版から十三年近くが経過しているにもかかわらず、この大作に関する研究は殆ど行われていない。

『彗星の住人』は続編である『美しい魂』と『エトロフの恋』とともに「無限カノン」三部作を構成しているが、本論文では基本的にこれを単体で考察する。それぞれが独立した長編としても読めるということと、三部作はおろかこの小説についてさえ基礎的な読みが研究レベルで確立されているとは言い難いことを考慮し、まずは『彗星の住人』について、大づかみに全体を把握し、これが一体どういう小説なのかを見極めるのが重要だと判断した。方法としては、語り手、場所、時間の三つの視点から多角的に考察を行う。

 

・1 語り手の役割

・1-1 語り手の性格

 父、野田カヲルを探す旅に出るという、二人称*1で書かれたこの小説の聞き手にあたる「君」――椿文緒の宣言とともにこの小説は出発する。「父の姉で、君の伯母に当る」(11頁)常磐アンジュの手紙に導かれて、「君」はアメリカから、太平洋を渡り、日本にやってくる。「君」はそこに着いて、はじめにカヲルの墓を見に行く。死者のためではなく、死者を思う人のために建てられたはずのその墓は「ケガレモノ、永遠に黙っていろ」(17頁)と落書きされ、ゴミが散乱し、荒れ果てていた。次に訪れた「眠りヶ丘」にある常磐の屋敷で、「君」はアンジュ伯母さんにこう尋ねずにはいられない。「常磐カヲルは、一体何を仕出かしたのか?」(39頁)と。しかしそこでこの捜索は停滞を強いられる。「父を探す」という当初の目的がいつの間にか*2父の痕跡をたどることにすり替わり、アンジュからカヲルとその先祖の物語を聞くことに紙幅が費やされることになる。ここにおいて語り手と「君」との目的が一致し、語り手は「君」に語りかけるのをやめ、三人称の語り手として振る舞うようになる。

 椿文緒を二人称で「君」と呼び、「君」に対して語りかける語り手は、小説の登場人物の過去を知悉しており、彼らの心情を描写することも思いのままだ。すべてを知る彼(便宜上「彼」としておくが、男か女かは確定しない)の語りは、いきおい予言に似てくる。「君」に未来がわからないのに、彼にはそれがわかっているかのように。しかし彼の語りは「君」には聞こえない。故に「君」が彼に気づくこともない。これは彼が事後的に語っているか、或いは同一時間軸上にいるにもかかわらず、彼が小説の登場人物よりも高次元(メタ)に位置しているからだ。彼の語りが届いていないにもかかわらず、「君」は彼の思惑に沿うようにして、先祖の恋の物語を知ることになる。それは島田雅彦が厭うところの予定調和*3に堕するということではないのか。『彗星の住人』のラストで、「君」はアンジュから、カヲルが恋した不二子が今は皇居の森で暮らしていることを知らされるが、その結末は予め小説のはじめの方で暗示されている。

 そことよく似た町は首都や郊外のあちこちに点在していたが、あの方々が暮らす森だけは杳とした霧に包まれた聖地のように孤絶している二十四時間眠らない首都の中心にあって、広大な面積を占めるその森は不透明な静寂の中でまどろんでいる。いかなる謎も、いかなる汚れも、いかなる抗議の声もその森はかき消してしまう。まるで、その森は黄泉の国と地続きであるかのように。

 この町は、しかし、一人の涼しい目をした女性が両親、母方の祖父母、双子の妹、そして犬とともに暮していた町としても知られている。その女性は今、静寂の森で沈黙を守っている。この町で暮した過去の記憶を携えて、森の住人となった彼女の心もまた、鴉のように二つの場所を行き来しているのだろうか? 

(『彗星の住人』26頁、傍線は引用者による、以下同じ)

 

 ここまであからさまだと、伏線の体を成していず、もはや種明かしに近いといえる。そのため読者はこのことを知らない「君」ほどにはその事実に驚くことはない。つまり、「君」にとっての最大の謎=「君」を最も惹きつけるものと、読者を引っ張っていくための仕掛けが作者によって意図的にずらされている。それでもなおこの小説に読者に対する牽引力があるとするならば、それはすべてを知る語り手の言葉がギリギリのところでほのめかしにとどまっているため、「君」と違い話の行き着く場所を知っているという優位性を味わいながらも、語られてゆく話の細部と登場人物の心中とを楽しむ余地が残されているからだろう。島田はあえてネタばらしをすることで、筋に対する興味ではなく叙述のテンションによって読者を引っ張っていこうとしている。これは渡部和己が山田詠美の『トラッシュ』を評して、「読者にとっては十二分に既知のことがらを発見したり、それにことさらな疑問をいだいたりすること」が、「読むことの《いま・ここ》の緊張感を殺いで、いかに鬱陶しく単調なものにしてしまうか」と書いた事態*4のことではない。この小説において、登場人物と語り手との乖離こそが、大きな意味を持っているからだ。

*1:二人称小説の定義については、野村眞木夫「日本語の二人称小説における人称空間と表現の特性(2) : コミュニケーションとダイクシスの観点から」(『上越教育大学国語研究』Vol.20、二〇〇六年)で踏襲されている、Monika Fludernikによる定義「虚構の(主たる)主人公の指示において呼びかけ代名詞を使用する物語」に従う。

*2:「父は何処から来て、何処へ消えてしまったんでしょう?」(31頁)という「君」の問いに対して、カヲルは「川の向こう岸から連れてこられ」、「遠いところへ追放された」という抽象的な答えでアンジュははぐらかしてしまうが、三九頁の地の文で「最も肝腎なこと」として「常磐カヲルは、一体何を仕出かしたのか?」とあるように、「君」が最も知りたいと思うことは墓にある落書きを見てしまったことで既に変更されている。

*3:「僕は小説を書きながらいつも恐れていることがあります。それは小説が予め決まっていた結末に落ち着いてしまうことです。つまり、僕は既成の物語パターン(神話のプロット)に逆らいたくてしようがないのです。」(島田雅彦『夢遊王国のための音楽』福武書店、一九八四年あとがき)

*4:渡部和己『〈電通〉文学にまみれて』太田出版、一九九二年