島田雅彦『彗星の住人』論(3)

1-3 二人称小説とは何か

 島田雅彦がこの小説を書くにあたり、どういったことを意図していたのかを知るためには、福田和也との対談*1が参考になる。

福田 これは批評家として聞かないわけにはいかないんだけれども、二人称にしたのはなぜ?
島田 歴史の語り口にはいろいろあるけれども、谷崎の顰(ひそみ)に倣いたかった。オーラルな噂話、或いは誰にも口外しないでずっと心に秘めていたもの、当人がわだかまりとして抱え込んだ感情、それらから歴史を立ち上げようと思った。物語の聞き手に「君」と語りかけ、歴史が作られ、恋が行われた現場の雰囲気を伝えようと工夫した。
福田 この二人称はすごい戦略的だと思いました。(中略)だけどもあなたはナラティブの中に生じる世界を「噂話」に終わらせないで、外の空気に通して大文字の歴史と対抗させるためにやっている気がする。
 おもしろいなと思ったのは、固有名詞が出ながら、ちょっとそれが現実とずれていて、(中略)でも日時限定できるような事実とは違う水準で書いていこうとしたのかな
と思ったのね。
島田 そのとおりです。
(中略)
島田 伝承は、あったことかなかったことか定かではない、いわばフォークロアのような形に今まではまとめられてきたかもしれない。しかし、今は逆に歴史は権力から解き放たれて、個々人が歴史を記述する自由がある。その自由をどう使うかという問いかけを、まずは小説でやってみたかった。

 小説の登場人物による語りは、ただ聞き手に対し、そして聞き手がいつか語ることになるであろう未来の子孫にも語り継がれるように、正確を期して伝承される。JBから蔵人へ、蔵人からシゲルへ、シゲルからアンジュへ、そしてアンジュから「君」へ語られたその物語は、決して歴史に書かれることはないだろう。それは一人称であろうが三人称であろうが、文字にした時点で致命的な虚構性を帯びる。しかし彼ら以外のすべての日本人にとってスキャンダラスなその物語は、話し手が聞き手のことを意識しながら語る親密な二人称の語りの力によって命を吹き込まれ小説に昇華している。
 しかしこの対談は登場人物間における語りの性格の説明にはなっているが、二人称小説での、語り手から「君」への語りが、同時に読者への語りかけになっていることへの説明にはなっていない。何故カヲルの一族でもない読者がこの親密な語りを盗み聞きすることができるのだろうか。

 

 二人称小説と言えば、第149回芥川賞受賞作である藤野可織の「爪と目」が二人称小説として話題になった。選考委員である島田はこの作品について、選評で「いきなり、あなたへの呼びかけから始まる二人称小説で、過去にこの不安定な二人称を使った小説がないわけではないですが、成功例が実は少ない。その中で、『爪と目』は非常に二人称が功を奏しているという意見があった」と高評価をしている*2

 この小説の書評*3で、鴻巣友季子は二人称小説とか何かについて以下のように述べている。

 改めて考えるに、二人称小説というのは、二人称だけか、二人称と三人称だけで書くのがセオリーのようだ。「あなた」というのは「私」の対岸に生まれる。ところが、「私」がいないのに「あなた」がいるという矛盾が人称空間に捻りを加えるのが二人称小説。右記の作品群には、みんな人称空間のねじれがある。言い換えれば、物語の同位相に「あなた」と「私」が共存するものは二人称小説ではない。それは、実在のだれかへの語りかけ、手紙といった形式と見做し得るし、内容的には妄想や操作(あなたはだんだん眠くな~る)なども含み得る。「爪と目」はこの延長線上にあると思う。

 島田の「爪と目」への評価に対立する見方といえるが、島田自身の作である『彗星の住人』についてはこの考察は――「右記の作品群」の中に島田の小説が入っていないにもかかわらず、「対岸」という極めて島田的な比喩を使うという判断の的確さも含めて――驚くほど当てはまっている。「人称空間のねじれ」、すなわちここで言うメタ視点に立つ語り手についての分析が、二人称小説の読解の鍵を握っていることが分かるだろう。


1-4 二人称の機能

 三浦雅士は「円環の呪縛 安部公房の世界」*4の中で、ゲーデル不完全性定理エピメニデスのパラドックスを例にあげて、自己言及の決定不可能性について論じている。ゲーデルによると、「どのような公理系もそれ自身が整合的であることをその公理系の内部では証明し得ない」という。しかしフィクション作品という公理系の内部ではそこに描かれていることの真偽は基本的には問題にされない。読者はハリー・ポッターの不思議な世界は現実には存在しないと知りつつも、それが物語内では事実であることを受け入れている。この「お約束」自体をテーマにした作品は三浦も挙げている安部公房の作品のように無いわけではないのだが、フィクションという制度はそれにもかかわらず現在でも力を失っていない。
『彗星の住人』ではこのフィクションの機能に自覚的に作られている。それは二人称の語り口と合わさることで独特な効果が生まれる。一族の恋の物語の伝承において、それがどんなに荒唐無稽であっても、聞き手にとって物語られる内容の真偽は問題にされない。それは親族という信頼出来る語り手によってその物語が語られるからだ。語り手と聞き手の間に血の繋がりがない蔵人からシゲルへ、アンジュから「君」へと語られるときにだけ物的証拠が必要とされる。何故血のつながりは話の真偽を不問にするのか。それはその話が本当であれ嘘であれ、それが話し手と聞き手の関係を強く規定してしまうからだ。それがたとえ嘘だったとしても、「それを信じた親族」との関係を聞き手は逃れることはできない。少なくとも、フィクション作品の自明性ほどには無根拠に親族の話は信頼できてしまう。
 小説の中で聞き手の位置を与えられる者たちと、彼らとは赤の他人である読者は、似たような関係にある。それは読者がフィクションという公理系の中で語られる事実を無根拠に受け入れざるを得ない存在であるという点で、彼らと共通性を持っているからだ。「君」という語りかけが「君=読者」という錯覚を与えてしまう二人称小説の特性を持つことで、読者と彼らの共通性がより強調されている。
 親密な者同士の語りによって展開されるこのプライベートな物語から、読者は一見排除されているようにも見える。しかし『彗星の住人』はその語り口によって読者を小説に取り込むことに成功している。
 この小説における二人称での語りは読者をある程度まで「君」と同一視させながらも、読者自身を主人公と錯覚させることはない。ここで述べているのは、あくまで読者の立場と「君」の立場が似ていることを、「君」が読者をも指し得るように見せる二人称小説の作りが象徴的に表しているということだ。


1-5 何故二人称なのか

 何故この小説が二人称で書かれているのか。それがこの小説の記述面における最大の謎だろう。「君」、すなわち文緒が自分の経験談として一人称で語ることもできたはずだ。自分の経験した話を他者から聞かされるというのは明らかに異常な事態だ。「君」の行動を全て語り手が把握しているのもおかしい。語り手の言葉が「君」に聞こえない以上、そして「君」の行動は誰よりも「君」自身が知っている以上、この語りは無意味ではないのか。小説の仕掛けとして、二人称は何らかの効果を持っていることは確かだ。しかし小説自体をナンセンスなものにしてまで追求する必要はあるのだろうか。
 一族の秘密の恋は、「あったことをなかったことにはできない」(402頁)という理由で、親族と親友に打ち明けられる。この恋の物語は聞き手が知らないことが前提にあるのに対し、小説の語り手が「君」にする話は「君」の行動である以上、「君」はそれを知っているはずだ。むしろ「君」の行動であるならば、それをなかったことにしないためには「君」がそれを信頼出来る他者に伝えなければならないわけで、ここには深い断絶がある。島田は一族の恋の物語の伝達されるべき必要性を説きながら、小説の記述面での語り手から「君」への語りの不自然さを無視している。
 何故「記述」ではなく「語り」でなくてはならないのか。死の床に就いた蔵人はシゲルに「記憶し、語り継ぐこと」(109頁)を望む。シゲルはその十二年後、カヲル達にカヲルの先祖の物語を聞かせることになる。何故蔵人は文章の形で遺そうとしなかったのか。どうしてシゲルは蔵人から聞かされた大切な話を書き留めておこうと思わなかったのか。そしてこの語りを主題にした物語が、小説という、語りではない記述によるメディアによって表現されたのか。このクリティカルな分裂には、おそらく『彗星の住人』という小説を読むうえで最も重要な鍵が隠されている。
 ここで、「君」を読者としてみたらどうだろうか。もちろん語り手は「君」を名前も過去もある個人――椿文緒として語っている。二人称小説は読者を「聞き手=主人公」として小説に参加させる形式だと思われることもあるが、『彗星の住人』のように、聞き手である「君」が作中の椿文緒と同定できる場合は、島田が別に書いているように*5、語り手の存在と、語り手と語られる相手との関係が小説を動かしてゆく。その関係は語り手の語りという行為の中からしか浮き上がってこない。「君」は彼の言葉の中にしかいない。そしてそれを読むのは現実的には椿文緒ではなく、読者である。一族の恋の物語が選ばれた少数の聞き手にしか聞くことを許されていないのに対し、この小説自体は読者に開かれている。語り手は登場人物の語られることのない内面を語ることのできるメタ視点に立つ。「君」の行動を描写しながら、「君」の心情だけでなく周囲にいる人物の心情にまでその語りは及ぶ。一族の恋の物語と、それを聞く「君」と、そのふたつを語る語り手の三つの次元があり、順に高次元になる。小説の記述はメタ視点に立つ語り手の次元で行われる。彼の語りは「君」に届かない代わりに、小説の文章に表れている。語り手ではありえないこの人物を、語り手と呼ばないならばどう呼ぶべきか。答えは簡単だ――「書き手」である。これは直接作者を意味しない。例えるならばスウィフトの『ガリヴァ旅行記』の主人公のような架空の書き手に近い。『彗星の住人』における登場人物間での語りが親密な個人に対して行われることを考えると、語りと記述の性質の違いがここに表れているといえるのではないか。記述はものとして残る以上、それを読むのは事後的で、また読み手を選ぶことは出来ない。親族以外に向けて語られることのないこの物語は、書き取られることで不特定の読者の目に触れることになる。その契機は書き手が担っている。この書き手は物語世界内の語り手のように振る舞っていながら、その言葉は語りである限りにおいてナンセンスになっている。つまり島田は語り手(書き手)が語り手ではありえないことを示すことで、小説という形式を意識化している。それは島田の小説家としての倫理性を示している。

(第一章 了)

*1:「対談 世紀の狭間と新しい恋愛文学」『波』二〇〇〇年 十二月号、新潮社

*2:文藝春秋』二〇一三年九月号

*3:鴻巣友季子「カーヴの隅の本棚 第八十八回「爪と目」で読む二人称小説」『文學界』二〇一三年九月号、文藝春秋

*4:三浦雅士『メランコリーの水脈』福武書店、一九八四年

*5:「これはつまり、話しかける相手を想定した小説の形式なのですが、この場合、二人称による呼びかけをしているのは誰かというところに、語り手の存在が立ち上がってくることのおもしろさがあります」(島田雅彦『小説作法ABC』(新潮選書)、新潮社、二〇〇九年)